食文化・にしん

みなさま、こんにちは。食文化学科の関野です。
先週末の連休に片山津温泉に行き、温泉地近くの北前船の里資料館を訪ねました。



資料館になっている建物の当主は橋立(はしたて)の北前船主酒谷長平で、
明治9(1876)年にこの自宅を建てました。
記録では橋立には42名の船主がいたそうです。



この写真は酒谷家の正門前で撮りました。
敷地面積は1000坪で北前船当主としては中位だそうです。
北前とは瀬戸内海から見た北方のことで下関から北海道沿岸にかけての総称だそうです。
酒谷家は6隻の船を持ち、巨額の富を北前船で得ました。

今の船会社のように他人の荷物を運んで運賃を稼ぐのではなく、
北前船は船主が荷主として各港で仕入れた物を売り買いしながら航行し
商売をしました。そのため、上手くいけば大儲けができました。
大阪から北海道へ行くときの商売は今のお金で300万円、
北海道からの帰りは1億円の稼ぎだったそうです。

北前船は主に加工されたにしん製品を、特に「にしんの粕」を安く仕入れて
高く売り儲けました。このにしんの粕は肥料として当時の日本の農業を大きく支えていました。
ニシンは一般に「鰊」と書きますがこの酒谷家の書類には「鯡」と書いてありました。
それは、にしんが魚には非(あら)ず、大判、小判だったからこの字になったそうです、
面白いですネ。

北前船で財を得た人々は富を自分達だけの物にはせず、
道路整備、学校・病院を建て、銀行業などを行い社会に還元したそうです。
そのため、この地域の人たちは船主たちの子孫を今も誇りに思い
尊敬しているそうです。

北海道のにしん漁が衰退すると同時に、北前船も衰退したそうです。
小樽にある「にしん御殿」も立派なお屋敷でした。
北前船の歴史の調査研究も面白そうですネ。



北前船の里資料館の加賀市から小松市あたりに行く道路の街路樹は、
松で緑が美しかったです。
これは、花山法皇が986年小松市に流れる梯川のほとりに松を植えたのが始まりで、
1980年に小松市の木として松が選ばれ街路樹が松になったそうです。