食文化・ポーランド特集②

皆さま、こんにちは。食文化学科の関野です。前回お送りした、ポーランド特集の第2弾です。

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3)シンドラーの工場、ピルケナウ絶滅収容所とアウシュビッツ強制収容所


写真はシンドラーの工場の入り口横の窓でシンドラーに助けられた人々の写真が貼ってありました。
彼が経営していたホーロー(鍋など)工場跡地に「シンドラーのリスト(1993年公開)」の映画と同じように
実際に今人々が生活している感覚で色々な物を工夫展示してありました。


この写真はピルケナウ絶滅収容所(アウシュビッツ強制収容所から2キロ離れた所)の鉄道の線路跡です。
今は草が生えていますが、当時は草も収容者たちが食べるため生えていなかったそうです。
線路跡のもう少し奥の場所が駅です。移送列車で収容所駅に到着したユダヤ人は、
すぐに労働が可能かどうかで2グループに選別(選択)されました。

労働不可能な大人主に女子、老人や子供などは、ガス室で処刑されたそうです。
若いころ、アメリカ映画「ソフィーの選択(1982年公開)」を見ました。
ナチスの恐怖を感じたのと、人生は選択の連続で成り立っているのだと
遅まきながら初めて意識をしたのを覚えています。
また、ソフィーが選択を強いられた場所(収容所駅)に行ってみたいと思うようになりました。


この写真はアウシュビッツ収容所の正門で「働けば自由になる」というプレートが掲げられていました。
現在はアウシュビッツ博物館として公開されています。
この収容所は、ナチスによってポーランド人の政治犯を収容するために作られたそうです。
それがユダヤ人、ロマ、ソ連軍捕虜も収容するようになり拡大しました。

この場所が選ばれた理由はアウシュビッツ収容所のあるオシフィエンチムが
ヨーロッパの中央に位置し全ヨーロッパからユダヤ人を送り込むのに最短だったのと
人口密集地から離れた鉄道の要塞地で交通の便が充実していたからだそうです。

「アンネの日記」のアンネ・フランクも2ヵ月間収容され、
再移送先のベルゲン・ベルゼン強制収容所でチフスのため1945年に死亡しました。

収容者の髪の毛で作られた布など当時の状況がつぶさに分かるように残っていたものを
そのまま展示公開されていました。

「ソフィーの選択」などの映画は全てセットで、アウシュビッツ強制収容所、ピルケナウ絶滅収容所は
大きなお墓なので映画などの撮影は禁止です。

この収容所を後世まで残そうと最初に努力をしたのはポーランド政治犯として収容された、
初代博物館館長スモーレンさんです。最近亡くなられたそうです。
また、ポーランド政府は「ポーランド人が作ったかのような印象を与える」として
登録名称の変更を要請し、ユネスコは2007年に「アウシュビッツ強制収容所」から
「アウシュビッツ・ビルケナウ ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940年-1945年)」へ名称を変更しました。

ポーランドは1945年から1989年までの44年間共産党時代でした。
1990年に共和国に成り、初代大統領ワレサ(1990 – 1995、原語の発音に近いヴァウェンサと今は呼ぶ)は
ノーベル平和賞を受賞しました。
ポーランド人のガイドによると、食堂などのサービスにはまだ共産党時代が残っているそうです。
2004年5月1日、EUに加盟しましたが、通貨はユーロではなくズウォテイです。
このため、ギリシャ、スペインなどのような通貨危機には陥らなかったとのことです。
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いかがでしたでしょうか?以上で、ポーランド特集は終わりです。