食文化学科
2017.08.08
食文化・北前船①
みなさま、こんにちは、関野です。
北前船の足跡を訪ねて資料館を訪ねました。
「伏木北前船資料館」は回船問屋だった「秋山家」を
資料館として利用しています。
伏木北前船資料館には、
北前船に由来する北海道の昆布の歴史が掲載されていました。
なぜ、富山湾では取れない昆布が
富山で食文化として定着しているのか不思議です。
伏木港は北前船の中継地、寄港地の一つで、
北前船は北海道からはほとんどが海産物の鰊粕、身欠き鰊、昆布などが運ばれ
寄港地の富山からは米、薬が積み込まれました。
また、富山県漁民の北海道への移住、出稼ぎは1800年半ばごろから盛んになり、
働き者の彼らは自然の厳しい北海道の端の根室、知床、歯舞諸島を開拓し、
豊富な魚、良質の昆布で成功し
故郷の家族、親せきに羅臼の昆布をたくさん送り
富山の昆布文化は開拓民と北前船で育まれ現在の姿になったそうです。
銭屋五兵衛(1773~1852年)は江戸時代後半に
「海の豪商」、「海の百万石」と称され活躍しました。
彼は17歳で金融業などの家業を継ぎ、
50歳代から北前船を使って海運業に乗り出しました。
金沢宮越に本店を全国34か所に支店を設け、
全国ネットワーク体制を確立し江戸時代を代表する大海運業者になりました。
彼の偉業は築いた巨万の富が加賀藩の経済を支えたことです。
大阪府池田市にある銭屋アルミニウム製作所と
何か関係があるのではとホームページを確認すると
次のような事が書かれていました。
創設者竹安猪三郎の愛読した立志伝において、
徳川時代に北は千島カムチャツカから南は豪州タスマニアと
海外に雄飛した銭屋五兵衛に深く共鳴し「錢屋」を登録商標し社名にした。
*****
次回につづく
北前船の足跡を訪ねて資料館を訪ねました。
1)伏木北前船資料館
伏木港は富山県の西側、高岡市の小矢部川の河口にあります。「伏木北前船資料館」は回船問屋だった「秋山家」を
資料館として利用しています。
伏木北前船資料館には、
北前船に由来する北海道の昆布の歴史が掲載されていました。
なぜ、富山湾では取れない昆布が
富山で食文化として定着しているのか不思議です。
伏木港は北前船の中継地、寄港地の一つで、
北前船は北海道からはほとんどが海産物の鰊粕、身欠き鰊、昆布などが運ばれ
寄港地の富山からは米、薬が積み込まれました。
また、富山県漁民の北海道への移住、出稼ぎは1800年半ばごろから盛んになり、
働き者の彼らは自然の厳しい北海道の端の根室、知床、歯舞諸島を開拓し、
豊富な魚、良質の昆布で成功し
故郷の家族、親せきに羅臼の昆布をたくさん送り
富山の昆布文化は開拓民と北前船で育まれ現在の姿になったそうです。
2)銭屋五兵衛記念館
石川県金沢市にある銭屋五兵衛記念館に行きました。銭屋五兵衛(1773~1852年)は江戸時代後半に
「海の豪商」、「海の百万石」と称され活躍しました。
彼は17歳で金融業などの家業を継ぎ、
50歳代から北前船を使って海運業に乗り出しました。
金沢宮越に本店を全国34か所に支店を設け、
全国ネットワーク体制を確立し江戸時代を代表する大海運業者になりました。
彼の偉業は築いた巨万の富が加賀藩の経済を支えたことです。
大阪府池田市にある銭屋アルミニウム製作所と
何か関係があるのではとホームページを確認すると
次のような事が書かれていました。
創設者竹安猪三郎の愛読した立志伝において、
徳川時代に北は千島カムチャツカから南は豪州タスマニアと
海外に雄飛した銭屋五兵衛に深く共鳴し「錢屋」を登録商標し社名にした。
*****
次回につづく