食文化学科
2019.10.15
トルクメニスタン・ウズベキスタン食紀行
みなさん、こんにちは、関野です。
中央アジアに位置するトルクメニスタン、ウズベキスタンに食文化と自然を訪ねて行ってきました。
1) トルクメニスタン
トルクメニスタンとは「トルクメン人の土地」の意味。中央アジア西南部に位置し、カスピ海と接する国。カラクム砂漠が国土の85%を占め石油、天然ガスが豊富です。永世中立国で旧ソビエト連邦(ソ連)の構成国で1991年に独立。イスラム教スンナ派が大多数でキリスト教正教会の信徒も少しいます。
砂漠の友、ラクダが私たちを出迎えてくれます。
中央アジアの主食はパンで種類が豊富。カマの内側に貼り付けて焼き上げるナンが主流で、ナンがたくさん売られています。ずっしりと重く中央に花輪のような円形の飾りが個性豊かに入っているのがトルクメニスタンのナンの特徴。中央アジアでは食事には緑茶が一緒に出てきます、緑茶、紅茶は無料でコーヒは有料です。ハーブの種類も多くバザールにたくさん販売していました。
お米料理のプロフは中央アジアの国々の料理で大きな鍋で大量に炊き上げるそうです。肉と一緒に炊き上げるのでお米が肉の旨味を吸い込んで美味しいです。プロフはピラフの一種で、トルクメニスタン・ウズベキスタンの国民食です。後ろのお皿にあるブドウ、プラムも特産品で干しブドウも一緒にテーブルに出てきます。また、料理にヨーグルトが添えてありました。これは、あっさり味にするための調味料のようなものだそうです。イスラム教の国ですが、夕食時にはアルコールをレストランで飲むことができます。
ホールケーキの大きさはソ連時代の延長だそうです。トルクメニスタンの人々は甘いもの好き。カットケーキは大き過ぎ甘党の私でさえ食べ残してしまいました。
綿花栽培が盛んで1910年ごろからソ連当時原綿の供給地で今も綿花畑が広がり9月が収穫の時です。
首都アシガバートの町並みは整然とし白い大理石造りの建物がならび、世界一大理石建築物が多いことでギネス登録されました。車の色も白、ベージュ、グレイなど白系統で規制され、濃い色の車は走っていません。
上写真はダルヴァザ「地獄の門(Door to Hell)」、1971年ソ連の地質学者が砂漠の下にある天然ガスの大きな塊を発見しました。彼はドリリングの際、地下に空洞があることに気付かず、周囲の砂、機械類、車も一緒に空洞に落ち直径70m、深さ30mの大きなクレーターができました(日本語パンフレットより)。この落盤事故で穴から有毒ガスが放出され続け、政府はガスの放出を食い止めるために穴の中に火をつけましたがこの処理に失敗し今も燃え続けています。現政府は地獄の門は失敗作品なので砂で埋める計画を持っているそうです。
上写真はカスピ海に近い砂漠の中の太古の海ヤンギカラ渓谷、ここは太古のカスピ海が後退してできた渓谷で、ヤンギカラとは火色の城壁という意味だそうです。大地が赤く燃え広がっているような奇岩の山々がかつては海の底にあり、風雨による浸食で今の姿。そのため、アンモナイト、二枚貝の化石を見つけることができるそうです。赤、オレンジ色の土が積み重なる地層で、夕日に当たると風景が燃えているように見え最高だそうです。暗い中、帰りの砂漠の道なき道の悪路のドライブは標識がないので現地のドライバーでさえ道を間違います。
ヤンギカラ渓谷の近くでお昼の弁当を食べました。フライドポテト、トマト、紙袋の中は中央アジア定番の大きな餃子で、中にほうれん草、羊肉が入っていました。メロンは丸ごと持参し現地でカット。一人分の量が多く、残してばかりでストレスがたまります。
2) ウズベキスタン
トルクメニスタンの北側に接する国で旧ソ連の構成国で1991年に独立。国境を最低2回超えないと海にでない「二重内陸国」の1つ、現在ウズベキスタンとリヒテンシュタインのみ。世界で4番目に大きい湖のアラル海に接し、この湖を綿花栽培の水源にしています。ソ連時代の計画経済でトルクメニスタン同様綿花栽培の役割を当てられました。綿花栽培には多量に水が必要、元来少雨のウズベキスタンは綿花栽培不向きな土地で、近年綿花栽培の水源のアラル海は10分の1ほどに縮小し、塩害にも悩まされ深刻です。道路の端に塩が風で飛ばされ積もっていました。
ショルパと呼ばれる、スープの料理。羊の肉団子と野菜のスープで皆さんナンを切って入れて食べています。
ラグマンでヌードル入りスープ、あっさり味で美味しかった。
花壇の緑はバジルです、緑と紫のバジルが花壇に使用されていてビックリしました。虫はつかず、きれいにそろっていて緑がはえる美しい葉を摘み取りたくなりました。バジルをガーデニングに使っているのはウズベキスタンだけでしょうか。
サマルカンドは抜けるような青空とイスラム建築モスクの青色から「青の都」と呼ばれています。この青空はステップ気候から地中海性気候への移行部特有のもの。サマルカンドは13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされ、14世紀末にティムールがサマルカンドを都に定めモスク、マドラサ(イスラム教神学校)、灌漑水路などを整備しました。東西交易の一大中継地へと発展、シルクロードの要塞として栄えました。写真はサマルカンドレギスタン広場にある正面、左右の3棟の大きなマドラサ。ターコイズブルーと幾何学模様の繊細で壮麗なモザイク壁画、天井ドームなどいつまで見ていても飽きません。現在は神学生の小さな個室は、美しい伝統工芸品のお土産屋がたくさん入っています。
トルクメニスタン、ウズベキスタンともに親日家が多く、日本人と分かると優しく声をかけてくれます。文化の交差点を感じるシルクロードをたっぷり味わい、各国の料理が入ってくるとトルクメ風、ウズベク風料理に変身して豊富な郷土料理になり観光客を楽しませてくれる旅でした。