食文化・北前船食文化研修⑤

こんにちは、関野です。
北前船食文化研修の第5弾です。
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5)函館 明治2年に箱館から函館になった。



函館山から眺める、函館の夜景は世界三大夜景の1つとされていました、
2012年に函館、ナポリ、香港⇒長崎、モナコ、香港に。
右の海が津軽海峡、左が函館湾で街の明かりのクビレが美しく
「光の街」と「闇の海」のコントラストが素晴らしい(HPより)。



五稜郭タワーから五稜郭を眼下に見ました。

箱館奉行から五稜郭の設計を命じられた武田斐三郎は
ヨーロッパの城郭都市をモデルに星形の城郭にし、
1864年に7年の歳月をかけて完成。
この星型が防御側の銃の死角を少なくする構造だそうです。

1854年日米和親条約で箱館は開港され、国際都市の一歩を踏み出しました。
また、ここで榎本武揚と土方歳三の旧幕府脱走軍が、新政府軍と戦いをして負けました。
この箱館戦争終了後、五稜郭の堀では冬の寒さを利用して天然氷が作られ
1871年には「五稜郭氷」として本州へ送られ販売されたそうです。



北海道昆布館のキャッチコピーは、「感じてください昆布のすべて」。
昆布は寒流の親潮海域を代表する海藻で、北海道の重要な産物。
江差方面から出発したコンブ船(松前船)は昆布を敦賀で降ろし、
陸路で京都に運びました。
さらに、コンブ船は下関を廻り終着駅の大阪へ。

江差など北海道では昆布はそのまま出汁のみの利用でしたが
大阪では多湿な気候が乾物の昆布のうま味を熟成させ、
加工が盛んになりコンブ屋が大阪にたくさんでき大阪の味になりました。

良質の昆布は大阪で消費され江戸には残りの昆布が行き、
また江戸の水の硬度が大阪より高く、昆布のうま味が出にくかったので
昆布ではなく鰹節が多く使われるようになりました。
出汁文化が、東は鰹節、西は昆布になった理由の一ツだと言われています。

沖縄と昆布の出会いは、偶然に沖縄の砂糖船と昆布船が出会い
積み荷の交換がされ、昆布が豚肉料理と相性がいいことが分かり
沖縄で大いに食べられるようになりました。
中国は沖縄から昆布の良さが伝えられ今も日本から輸入しています。

日本海側の富山、敦賀などに昆布が広まったのは
北海道から北前船で昆布が運ばれたためです。
敦賀からコンブロードと呼ばれる「海の道」で京都、大阪、沖縄、中国まで広がりました。
昆布の各地伝搬は奥が深いです。
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つづく
いよいよ次が最終回です。