日本文化学科
2016.12.06
【日本文化創造学科フィールドワーク・方広寺編⑪】京都in智積院
こんにちは、日本文化創造学科三年のF乃です!
先日、フィールドワークの授業で京都の七条へ行き、
主に方広寺、豊国神社、三十三間堂を中心に回ってきました。
私が調査を担当したのは『智積院』です。
智積院とは、真言宗智山派総本山の寺です。
もとは、紀伊国(和歌山県)根来山大伝法院の塔頭 (禅宗寺院で住持の死後、弟子が徳を慕い建てた小院)のひとつでした。
根来寺は、豊臣秀吉と対立し、天正十三年(1585)三月、兵火により炎上しました。
慶長六年(1601)、徳川家康は住職の玄宥に京都東山の豊国神社の付属寺院と寺領を与えました。玄宥は二つの堂舎を建立し、五百仏頂山根来寺智積院と号しました。
元和元年(1615)には、豊臣氏の滅亡後に隣接する別の寺院、祥雲寺を与えられました。祥雲寺とは、天正十九年(1591)秀吉が息子「鶴松」の菩提を弔うため建立された寺院です。
ですが、天和二年(1682)に火災でほとんどの殿舎が燃亡し、昭和二十二年(1947)にも殿舎を焼失しています。
ですので、この写真に写っている智積院は、新しく建て直されています。
残念ながら、時間の都合上、建物内に入ることはできませんでしたが、庭を通り近くに行くことはできました!
ちなみに、智積院の収蔵庫には、長谷川等伯の障壁画が保管されているそうなので、次に行く機会があれば、ぜひこの目で見たいものです。
【日本文化創造学科フィールドワーク・方広寺編⑩】紅葉舞う?新日吉神社
先日、フィールドワークの授業で京都の七条へ行き、
主に方広寺、豊国神社、三十三間堂を中心に回ってきました。
私が調査を担当したのは『智積院』です。
智積院とは、真言宗智山派総本山の寺です。
もとは、紀伊国(和歌山県)根来山大伝法院の塔頭 (禅宗寺院で住持の死後、弟子が徳を慕い建てた小院)のひとつでした。
根来寺は、豊臣秀吉と対立し、天正十三年(1585)三月、兵火により炎上しました。
慶長六年(1601)、徳川家康は住職の玄宥に京都東山の豊国神社の付属寺院と寺領を与えました。玄宥は二つの堂舎を建立し、五百仏頂山根来寺智積院と号しました。
元和元年(1615)には、豊臣氏の滅亡後に隣接する別の寺院、祥雲寺を与えられました。祥雲寺とは、天正十九年(1591)秀吉が息子「鶴松」の菩提を弔うため建立された寺院です。
ですが、天和二年(1682)に火災でほとんどの殿舎が燃亡し、昭和二十二年(1947)にも殿舎を焼失しています。
ですので、この写真に写っている智積院は、新しく建て直されています。
残念ながら、時間の都合上、建物内に入ることはできませんでしたが、庭を通り近くに行くことはできました!
ちなみに、智積院の収蔵庫には、長谷川等伯の障壁画が保管されているそうなので、次に行く機会があれば、ぜひこの目で見たいものです。
【日本文化創造学科フィールドワーク・方広寺編⑩】紅葉舞う?新日吉神社